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永泉寺沿革 

  • 7世紀後半(670~690年:白鳳年間)

役の小角(えんのおづぬ)が鳥海山中腹(観音森の麓。付近に良い泉がある)に道場を開く。​
 

  • 823年 (弘仁14年)​

吹浦神宮寺開基の頃、この地を布教の為に訪れた慈覚大師が鳥海山中腹にある観音森に一棟のお堂をたて、鳥海山興聖寺と名付けた。(天台宗)
 

  • 1354年(文和3年)

この頃、本源道也律師という人が住持であったが、寺は荒れ出し雑草が茂るだけになっていた。​​​

  • 1382年(永徳2年)​

総持寺第二世我山禅師の二十五哲の一人、源翁和尚がこの地を回った際、稲荷大明神のお告げとその使いの白狐の導きで興聖寺跡を知り、道也律師は源翁和尚の徳を慕い寺の管理を禅師に譲った。禅師は荒れた寺院を再興し、その後応仁の乱で世が乱れると、寺跡や仏像を現在の地に移し堂塔伽藍を復興、全境内を金狐洞窟と名付けて一山守護のために福寿稲荷大明神を移してお祭りした。この時点で曹洞宗となり、剱龍山永泉寺(ようせんじ)と名前を変えた。
この結果、源翁和尚を御開山とし、以来禅の教えを広め民衆を助け、同時に多くの末寺を開くに到り、大本山総持寺の直末寺として曹洞宗の中本山格の寺となった。
 

永泉寺の十五末寺

冷泉寺(中俣)  光岩寺(宮内)
常恩寺(下当)  普門寺(一条)
海禅寺(吹浦)  妙泉寺(吉出)
龍岩寺(岩川)  龍昌寺(楸島)
青原院(丸子)  永運寺(中島)
宗泉寺(小松)  宝泉寺(大内目)
長泉院(山崎)  渕龍寺(三川)
龍泉寺(瀧野浦)

源翁和尚と殺生石

千歳の妖狐が一度化けて殷の天下を滅ぼし、二度化けて班足(はんそく)太子の聡明さを覆い隠し、三度化けて四方を滅ぼした。更に神洲に渡り四度化けて塊石となった。この妖狐はいかなる災禍を物忌みし、いかなる人の力によって迷える人を救う仏道を習得したのか。
 

野狐が殺生石に化けて年月を経ること二百三十余年、これに触れたるものは人畜を問わずことごとく倒れて死に、災禍が止まらず、朝廷はこれを愁いて名山の高僧に命じて悪業を征服することにした。紀伊三井寺の浄恵法師が那須野の下り征服しようとしたが毒気に触れて倒れた。続いて書写山の了空坊、筑前眞静寺の道茎和尚など仏道に優れた高僧が向かったが悉く毒気に倒れた。これを聞いた源翁和尚は、万民の悲願見るに忍びないと、ある日飄然と那須野に出向いた。

さすがの野狐も禅師の法力には敵わなかったとみえ、殺生石から毒気を無くしてしまった。

 

源翁和尚は、この怪石を解脱するため声高らかに一喝し、法杖で一撃したところ石は砕けたと言い伝えられている。今日、石工が使用する鉄の槌を『ゲンノウ』(源翁)といううのはこのことに語源があると言われている。

源翁和尚と玉藻の前

殺生石の前身である美人の玉藻のまえが、狐になって逃げ籠った那須岳の中腹は、鹿や猪か棲み、狐の穴もあれば狼の遠吠えも聞こえる妖怪変化が徘徊するにはお誂え向きなところ。今もなお妖狐『玉藻の前』を主人公にした長唄『日本那須野の段』では二段上がりの調子で唄われ、芝居や義太夫に時代物として登場する『玉藻の前』が永泉寺と因縁があるのが面白い。


永泉寺開山源翁和尚が殺生石を割り、時の帝から能照法王という禅師号と共に『玉藻の前の簾』を下賜され現在もその『簾』は永泉寺の寺宝の一つとして保存されている。

 

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